知多郡東浦町は知多半島の東側の付け根に位置する町で、町の名は知多半島東の浦、衣浦湾(知多湾)に由来します。
この一帯は江戸時代ごろから干拓による新田開発によって海岸線は大きく後退し、衣ヶ浦は川のように狭くなっていきました。
東浦町の中心部である緒川には屋敷という名の地名があります。現在も緒川に蔵を構える野村酒造のある通りに伝統的な商家や長屋門、土蔵街、大きな入母屋造りの屋敷などが残されていました。しかし、景観や町並み保存の動きは見られず、取り壊しが随時進んでいる様子でした。
緒川は古くは小河とも書かれていましたが、戦国期に水野氏の拠点となった頃から、緒川の名になったと言われています。この水野氏は徳川家康の母方の家筋であり、知多半島や三河へ勢力を伸ばした部将でした。水野忠政は苅屋(後の刈谷)に主城を移し、緒川城と共に尾張・三河で24万石を支配していました。
水野忠政の子、信元は織田信長の元で有力部将として活躍しましたが、嫌疑を掛けられ粛正されてしまいます。
関ヶ原の戦い後、家康の甥にあたる水野分長がその戦功によって、旧領の緒川に配され、9820石で緒川藩が成立しました。しかしわずか5年後、分長は三河新城へ加増転封し、緒川藩はここに廃藩となります。
尾張藩に負担となってのしかかった緒川藩領は、有力な豪商や豪農に新田開発が委託され、干拓事業が盛んに行われるようになります。これによる新田開発によって米の生産量の増加は当地の酒造業を発展させ、最盛期には7軒もの酒造家がいたと言われています。
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