現在は常滑市の一部になっている尾張大野は平安期にすでに見られる湊町で、中世以来「大野荘の湊」としてその名がありました。大野湊は三河から伊勢への道筋でもあって、海事・軍事における要地であり、戦国期には佐治氏率いる大野水軍の拠点として、かの織田信長や豊臣秀吉も無視できない存在せした。
戦国期には伊勢湾の海賊や大野水軍で恐れられた大野湊も、江戸期には潮湯治とよばれる海水浴の一種で人気となり、尾張藩主をはじめ徳川家康もこの地に滞在したと言われています。
この江戸時代の大野は湊に加えて、酒や味噌などの醸造業に菓子・木綿などを加えた問屋・仲買を中心とした商工業の町として発展し、当時の常滑の人口1,400人弱に対して3,400人を誇る町として栄えていました。またこの時代に、大野では木下仁右衛門家が知多郡酒支配を命じられ、大野だけでも17軒の酒蔵があり郡内最大の酒屋数を有していましたが、現在大野地区に酒蔵は1軒もありません。しかし当時の常滑村を凌ぐとも言われた名残とも言える伝統的な商家や町家それに土蔵が、狭い路地のあちこちに今も残されています。
尾張大野といえば、江戸期ごろに大野鍛冶が知られていました。古くは12世紀ごろにさかのぼって、知多半島では鍛冶を営むものが多数存在し,遠くは美濃や三河まで出稼ぎに出かけていました。耕作地が少なかった事も一つの要因でした。
もともとは武具鍛冶がそのはじまりで、江戸時代の太平の世になると、農具を中心として製作や修理する農鍛冶が増加。その多くがこの大野へと集まってきたのです。
この大野鍛冶の出稼ぎは昭和初期まで続いたそうですが、現在その姿はありません。
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