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町並(町名です)にある酒蔵・日野屋商店
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新城は長篠の戦いで功のあった奥平信昌が徳川家康の命により、郷ヶ原に築城して”新城”と呼んだ事に始まります。同18年、奥平信昌は上野国宮崎へ転封。この地域は吉田藩池田輝政の所領となりますが、池田家も播磨姫路へ移り幕府領となります。
慶長11年、徳川家康の従弟である旗本水野分長が1万石の大名に昇格、新城城を修復して居を構え新城藩が成立します。2代元綱は幕府の奏者番に出世し4000石を加増されますが、さらにその後出世して上野国安中へ2万石で転封、新城藩は廃藩となります。一旦幕府領となりますが慶安元年から旗本菅沼定実が7000石で新城に陣屋を構え、交代寄合として参勤交代を行い幕末まで11代続きます。陣屋は現在の新城小学校の場所にありました。
新城は吉田城下(現豊橋)と内陸部を結ぶ豊川を上下する川舟の往来、信州中馬や三河馬など陸上輸送と舟運の接点として栄えていました。信州街道(伊那街道)沿いには商家が軒を連ね「山の湊・新城」と称されたといいます。
新城城下の人口は城下町成立時の約7000人から中期には14,000人、幕末は2万人超と人口が初期の3倍に増加し、その発展に合わせ特権商人が成長する一方で百姓や武士の生活は困窮していきました。商人の多くは本町に店を構え、今でも酒蔵を初め伝統的な佇まいの商家建築が本町に見られます。
明治になると豊川の北側の伊那街道・南側の別所街道が整備され豊川の渡しでふたつの街道は結ばれていました。
町の東端の平井から東新町にかけて桝形が2つも連続し、さらに西新町から本町・中町にかけて緩やかなクランクが連なり、城下町である事が一目で分かります。
物資の集散地として特権商人は財を築きましたが、7000石の城下町の経営は破綻寸前で町は疲弊していました。東西の大動脈から反れた谷口の城下町にしては、町並みが少なすぎるのもその為かも知れません。財を築いた特権商人も鉄道の開通や産業構造の変化によって急速に衰退していきました。
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西新町の町並み |
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沖野の町並み |
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