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ぎふ
 織田信長天下統一の拠点・鵜飼と商人の町
  岐阜県岐阜市(元浜町・玉井町・今町・他)
 構成:商家・町家  駐車場:なし
元浜・玉井町地区
 

岐阜は戦国時代に、織田信長が天下統一の拠点として建設した城下町です。
現在の岐阜市域は古くは井ノ口と呼ばれ、二階堂氏が金華山山頂に稲葉山城を築きこの地を支配していました。その後支配は斎藤道三に代わり、近代的な城郭が築かれます。しかし美濃一帯を支配した斎藤氏も3代で幕を閉じ、尾張の織田信長がこの地を支配しました。そしてこの地を岐阜と名付けたのです。信長は尾張清洲から商人を呼び寄せ、有名な楽市楽座をしき城下町を発展させる一方で、中川原の木材市場では旧来どおりの独占権を認めていました。
この地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスは「8,000ないし1万の人口を数え、バビロンの混雑を思わせる」と信長の城下町の繁栄を語っています。

長良川の水運によって上流から運ばれた木材が多く陸揚げされた金華山麓の商家町には、現在も木挽町・材木町・茶屋町・金屋町・大工町など往時から続く町名と供に、古い街並みが数多く残されています。
全国に相次いで誕生する「小京都」を遙かに上を行く、これほどの規模・状態の町並みがありながらほとんど観光地化はしておらず、ごく普通に生活が営まれています。
鵜飼で知られる長良川は、季節によって観光客が多く訪れ、その時は町をあげて古い町並みをアピールしていました。しかし、シーズンが過ぎると、再び人影の無い静かな町に戻ります。

岐阜長良川の鵜飼いは戦国時代に起きた大洪水によって、本流のルートが変わり鵜飼漁民がこの地へ移り住んだことに始まります。
斉藤道三は鵜飼漁民を保護し、織田信長は漁民を「鵜匠」と呼んで「鷹匠」と同等の地位をあたえます。その後、幕府直轄から尾張藩へと支配者が変わっても、その特権は続きました。特に尾張藩は彼らに給米を与え名字帯刀を許したほどでした。

関ヶ原の戦い後、徳川家康は岐阜城を取り壊し、その資材を用いて約4km南に加納城を築城。奥平信昌10万石の加納藩が成立すると、旧岐阜城下には岐阜陣屋が置か
れ、在郷町として再出発しました。その後岐阜は美濃国奉行、美濃郡代の支配を経
て、尾張藩領となります、

岐阜金華山麓の町並みは、大きく分けて長良川沿いの元浜町・玉井町地区、運河を挟んだ南側、幾度も折れ曲がる国道265号線沿いの町々。木挽町、上茶屋町、今町、山口町、上新町、他。そして、長良川の対岸、長良地区です。その他広大な城下町には数多くの「街角」が点在しています。


現在も材木店が連なる元浜町
玉井町の町並み