歴史に残る「郡上一揆」で知られる郡上八幡は、奥美濃の中心地として発展した城下町、郡上郡八幡町から総称された地名です。
戦国期に遠藤盛数が八幡山に砦を築き、関ヶ原の戦い後には遠藤慶隆が丘陵に復帰。郡上藩2万7000石の本格的な築城が行われました。そして、城の拡張と城下町の整備は歴代藩主に引き継がれながら発展していきます。現在の郡上八幡の町中を縦横に走る用水路は、藩主遠藤常友によって防火対策用に造られたものです。
ところが遠藤家はその後、まるで時代劇の脚本の様な跡継ぎを巡るお家騒動で改易。
替わって金森頼錦が藩主となりましたが、慢性的財政難を切り抜けるための度重なる増税に、農民達の怒りが爆発。歴史上類を見ない、幕府官僚から老中にまで処分が及んだ宝暦騒動(郡上一揆)により金森家も改易されてしまいます。
その後は丹後国宮津城主青山幸道が4万8000石で入封、以後7代続いて明治を向かえます。
郡上八幡には今も多くの古い街並みが残されています。ただし、それらのほとんどが大正時代に町を焼き尽くした大火の後で建て換えられたものです。
郡上八幡は「水の町」でもあります。町中に張り巡らされた防火用に整備された用水路だけではなく、町のあちこちで清水が湧きでています。小駄良川に架かる朱色の清水橋のたもとから湧く「宗祇水(白雲水)」は全国名水百選の一番手に選ばれた名水中の名水。
名水の郷でかつ城下町なら、さぞ酒蔵も多い事だろうと思いましたが、現在八幡町にある酒蔵は本町にある「 積翠」の平野本店ただ一軒のみでした。
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