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  兼山
かねやま
 森蘭丸の城下町として知られる木曽川河港で栄えた町
 岐阜県可児郡兼山町 【岐阜県可児市兼山】2005年合併

 構成:商家・町家・酒蔵・土蔵・旧学校建築 ■ 駐車場:なし
 
 

兼山町はとても影の薄い町である。可児市の北側、美濃加茂市の東と言えばよいか、
2005年に可児市に編入合併したが、御嵩町を介して飛び地となっている。
全国で2番目に面積の小さな町で、東京都千代田区の1/5しかなく、しかもその大半が山林ときているので、市街地はわずかな一筋しかなく、人口はわずか1,600余り。
木曽川河岸段丘上に細長く形成された街村形態の町で、これが全てでもある。

そんな兼山町が今のいままで独立を保ってきたのは、かの織田信長に仕え、本能寺で共に殉死した森蘭丸、森氏の城下町であったプライドゆえか。

兼山は木曽川上流の要地で、水運の拠点であり古くから六斎市が開かれていました。
戦国期にこの地を支配した斎藤道三の養子正義が島ヶ城を築城、それまで中井戸村と呼ばれていたこの地を金山村に改称しました。
その後、織田信長は美濃攻略で功績を挙げた家臣、森可成が7万石で入封し島ヶ城を金山城と改称します。森可成はその後近江で戦死。その子森蘭丸も、その後本能寺で巡視します。
2代城主森長可は城下町の整備に取り掛かり、木曽川河港の金山湊にあった塩問屋を村の東部に移転させ、魚屋町に。下町(現・常磐町)には商人町、古町(城下町)は職人町にしました。

関ヶ原の戦い後、森氏は信濃川中島へ転封、金山は尾張藩領となり金山から兼山に改められました。兼山は河港を中心とした商業町として栄え、25軒ほどの酒屋もあったと言われています。現在もその1軒の酒蔵が残ります。
しかし、河港町として栄えた兼山も、寛政年間ごろから水運の拠点が上流の黒瀬湊へ移るにあたり、次第にその衰退が始まります。

兼山の変わった物産に天然氷があります。この地域は清浄な水資源に、日当たりが悪く冬季の寒冷が激しい気候条件が、見事に天然氷の製造に適しており、そこで作られたというよりも、生まれた兼山氷は木曽川水運によって名古屋や四日市方面まで運ばれたといいます。


 
 
 
 
兼山の酒蔵          
清酒 「日本海」 伊藤酒造 岐阜県可児郡兼山町759 0574-59-2158