美濃赤坂は江戸時代、中山道56番目の宿場町であると共に、石灰や大理石の産出で栄えた町でした。古代東山道時代、この赤坂の北東に青墓宿がありました。そして当事の赤坂は単なる杭瀬川の舟渡し場でしかありませんでした。しかし青墓宿と杭瀬川との間にかなり距離があった為、舟待ちの宿として赤坂宿が設けられる事になります。舟渡し場に宿場が併設された結果、利便性の悪い青墓宿は衰退、消滅してしまいました。杭瀬川は当初揖斐川の本流でしたが、享禄3年(1530)の大洪水で水路が大きく変わり、河幅の狭い支流となってしまいます。元来渡し場であった赤坂港は新たに物資の集散する河港として発展しました。赤坂町の杭瀬川沿いには旧赤坂港跡が復元されています。
さて、赤坂宿の発展に重大な影響を与えた出来事が幕末の皇女和宮降嫁です。「公武合体」の政略により徳川家に嫁ぐことになった皇女和宮。京から江戸への道程で、赤坂宿は和宮一行の宿泊地と指定された為に、宿場の大改修工事が行われ、今に残る赤坂の町並みが出来上がりました。当時これを「お嫁入り普請」と呼ばれました。
赤坂宿の家数は292軒、人口は1,129人、本陣1、脇本陣1、旅籠屋は17軒。問屋は東町に2軒、羽根町に1軒ありました。
美濃赤坂駅入口付近に桝形と十字路があります。西国三十三霊場・谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道と養老街道が中山道と交差している場所で、この周辺に美濃赤坂宿の中核となる伝統的な街並みが集まっています。矢橋邸と、谷邸の町家と養老街道に沿って大きな土蔵を構えている矢橋邸。かつて脇本陣を勤め、現在は「榎屋」の屋号で旅館を営いんでいる飯沼邸などいずれも豪商や名主です。
赤坂の北側にそびえる金生山は、今から約2億5000万年前に珊瑚礁がプレート運動によって隆起して形成された山で、実にその90%生物石灰岩であり今も採掘中に多くの化石が発掘されています。江戸時代から現在に至るまで石灰や大理石の産出が行われ続けている結果、もはや山の姿をとどめていません。赤坂をはじめ、この一帯には石灰で富を築いた豪商の屋敷が数多く見られます。
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