大垣は古くから東西交通の要衝であり、また京への牽制のために江戸時代には譜代大名が封じられてきました。石川家、岡部家、松平家と続き、最後は戸田家10万石の城下町として、明治まで12代235年間続きました。
現在の大垣中心部は太平洋戦争での空襲や、濃尾大地震の震災により、古い家並みを見つけることはなかなか難しいですが、船町付近には数軒の造り酒屋があり、土蔵や商家の家並みが残されています。
大垣には東西に美濃路が通り、その宿場町でもありました。美濃路は大垣城下を京側の船町から俵町、竹島町、本町、伝馬町北町を経て伝馬町へとジグザグに折れながら進みます。城下町らしく遠見を防ぐためです。
これら美濃路に沿った町を総称して往還町と呼び、それらに隣接する中町、新町、魚屋町、宮町は脇町と呼ばれていました。往還町の長さは26町14間にもおよび、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋1軒、旅籠屋は14軒でした。
美濃路の京口にあたる船町には門が設けられ、名古屋口の門と共に「総門」と呼ばれていました。
船町という名前からも水門川の水運、船町港があり、海を持たない美濃にとっては桑名、伊勢そして江戸を結ぶ重要な物流の玄関口です。
元禄2年、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅をこの大垣で結び、船町から舟で水門川を下っています。
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