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大湫は(おおくて)と読み、湫は久手と同じで湿地を意味しています。つまり大湫は大きな湿地の事であり、中山道が当村を通るまでは、高原の湿田をもつ小村でした。
江戸時代に入り幕府は五街道の整備に着手、美濃国内の中山道整備に関しては、旧東山道のルートを改め、御嵩〜大井間は細久手〜大湫経由の山間に広がる樹海を通る新道があらたに建設られました。
新ルートの開通に合わせ入宿者を募って細久手宿・大湫宿が造られます。大湫宿は本陣、脇本陣、問屋・旅篭が44軒と規模は大きく、皇女「和宮」をはじめとする歴代姫君の降嫁の際には泊宿となりました。
宿場町の街並みは幾度もの火災で焼失。明治に入り駅伝制が廃止されると急速に農山村へと変わりました。
しかし大湫宿は、伝統的な佇まいの商家や町家などが立ち並ぶ街村として宿場町の名残を留めています。この地域は山間に点在する集落の間隔が広く、アクセスが困難なある意味隔絶された地域である為に、往時の文化が今に残されたのではと思います。
現在、大湫には病院や小学校などもあり、この周辺山村地域の中心となっています。
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