現在の交通網から隔絶された八百津町は中世末期から木曽川舟運で栄えた町でした。黒瀬湊や錦織湊などの河港をいくつも抱え、町の中心では定期市が開かれていまし
た。錦織湊は江戸期からは木曽木材の網場・筏場として発達した河港で、尾張藩錦織材木奉行が置かれていました。網場とは木曽川上流の各地で切り出された材木を単体で流し、それらをこの錦織の川に張られた大網で止め、筏に組んで下流に流場所の事をいいます。
一方の黒瀬湊は商業の町として発展し定期市が開かれ、問屋や商家が立ち並びまし
た。しかし、いずれの河港町も発電ダムの建設や陸上交通の発達により、その役割を失い衰退していきます。
地理的に孤立している山腹の町であった為か、中心部には伝統的な商家が非常に良い状態のまま残っていました。しかも現役で商い中。特にこの八百津の街並みを構成しているほとんどの建物は造り酒屋の店蔵と白壁の土蔵街です。この小さな町に3つの蔵が密集しています。明治元年創業の山田商店、明治19年の創業の花盛酒造、そして明治10年創業の吉田酒造です。
いずれの蔵も雑誌などで紹介され、都市部でもファンを持つ酒を造り続けています。
八百津町の目抜き通りである、本町、旭町に在郷町を偲ばせる町並みがあり、少し離れた八百津大橋に近い芦渡には吉田酒造と中心とした街道町の家並みがあります。
その間に挟まれた地区にも、レトロな町並みが残されています。
八百津は第2次大戦中、ナチスから6千人ものユダヤ人を救った外交官・杉原千畝の生まれ故郷でもあります。当時リトアニア日本領事代理をしていた杉原は日本がドイツと同盟関係にあったにもかかわらず独断でビザを発行し、ナチスの魔の手がせまったユダヤ人を救いました。
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