津市の南部地域に阿漕浦という海岸線があります。古くは安農津にならぶ湊として栄えていましたが、近世ごろからは伊勢参宮街道(伊勢別街道)の宿場町として多くの参詣客で賑わいました。初期の伊勢参宮街道は海岸線近くを通っていましたが、江戸時代に入り藤堂高虎の津藩が成立すると、高虎は伊勢参宮街道を津城下へ引き入れ、現在に残るやや内陸よりの街道が形造られます。
今に残る阿漕の町並みはこの頃に成立し、津城下の一部として街道沿いに町場が形成されていきました。そして阿漕宿の町並みはとなりの八幡町にまで連なります。
現在の旧伊勢街道筋・阿漕宿には切妻平入りに伊勢地方独特のオダレを軒先に備えた町並みが軒を連ね往時の面影を色濃く残しています。多くの建物は間口が2間(約3.6m)ですが、中には1間(約1.8m)という狭小なものもあり、宿場町に見られる間口によって課税された時代の様子を今に伝えています。
これら阿漕の町並みは行政的にはあまり注目や評価が得られていないようですが、これほどの町並みが非常に高い基準で残り、さらに町並みに合わせ同じ様式でのリフォームや建て替えが行われている様子を見ると、住民の町並みにに対する意識の高さを感じました。
余談ですが、よく時代劇などのヤクザ言葉に「あこぎなまね:::」という言い回しがあります。あの「あこぎ」という言葉は「悪気」では無く、この阿漕に由来するといいます。中世の阿漕浦は伊勢神宮領であり禁漁区となっていまいした。しかし、魚がよく捕れる為に密漁が後を絶たず「あくどく度重ねて密漁をすること」から「あこぎ」という俗語が生まれました。室町期には「あこぎ」を「度重なること」の比喩として使いられていましたが、近世になると「しつこいさま」の意味として使われるようになり、やがれ現在の意味に変化していったと言われます。
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