三重県の南端部、リアス式海岸が入り組む風光明媚な熊野灘沿岸部で、最も近代的な港湾都市の様相である尾鷲市は人口約20,000人の市で、国内最大の豪雨地帯としても知られています。
市域の77%が山地で、辺端部は海岸線に沿ってわずかしかありません。紀伊山地が熊野灘に沈水して生まれたリアス式海岸は「山の尾の端」から「おわし」と転訛し、これが尾鷲の由来であると言われています。尾鷲は古くより、近年まで「おわし」と読みましたが、昭和29年の市制施行から「おわせ」と読みを変更したのです。
天然の良港であった尾鷲は、古代には伊勢神宮の御厨を務める漁村でしたが、中世以降は漁業よりも生活が安定する林業が盛んになっていきます。
江戸時代は紀州藩の支配のもとで。江戸への木材搬出港として重要視され、また江戸〜大阪間を往来する廻船の寄港地として繁栄。船宿や積問屋・船問屋が軒を連ねました。また多くの在郷商人も生みだし、中でも山林王として知られる土井家は10数隻の千石船を所有していたと言われます。
長年陸の孤島に近い状況にあった尾鷲の経済発展は、国鉄紀勢本線の開通を待たなければなりませんでしたが、昭和34年の同線の開通や国道の整備によって、急速に成長。熊野地域の中核都市へと発展していきます。
開発の著しい港湾地区。JR尾鷲駅から約600mの距離にある旧熊野街道(国道311号線)沿いに伝統的な商家をいくつも見る事ができます。連続性はありませんが、中井町から港町には廻船問屋を始め、昭和初期の家並みが多く残り、さらに南に下った朝日町・林町には富裕商人の家並みがひっそりと残されていました。
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