大阪の玄関口、大阪駅周辺は近代的な高層ビルが建ち並ぶ大都市の様相を呈していますが、ほんの数キロ先には、戦災をまずがれた戦前の町並みが広がっています。
大阪駅から西へ約2km。海老江地区も古い町並みが残る非戦災地区の一つです。
ちなみに大阪駅を含めたこの福島区一帯は、古くには淀川(旧淀川)河口に形成された三角州を中心とした水郷地帯だったといいます。縦横に河川が流れ、大小さまざまな「島々」があり、それらは「難波八十島」と呼ばれていました。実際に島が80もあったかどうかは不明ですが、この八十は”沢山”の意味だと思われますが、現在も残る福島・堂島・都島・難波島などの地名はこれに由来します。
福島は始め、饑餓島と呼ばれていました。しかし菅原道真が太宰府左遷の時にこの地に立ち寄り、不詳なこの地を福島と改めたといいます。
近世の海老江は”海老洲”とも呼ばれていた大阪城下の近郊農村でしたが、明治29年から始まった淀川の大改修事業で、村域の大半が中津川流域に開削された新淀川の河床に沈む事になりました。淀川対岸の西淀川区花川地区は、かつて分断された海老江村の一部、海老江新家とよばれたところでした。
古い町並みは、迷路のように狭い路地が入り組む、海老江6丁目と4町目界隈に多く見られます。まずは海老江6丁目にある八坂神社をめざしましょう。そしてここから半径150mの地域に、非戦災地区の中でも最も古いと思われる町並みが残されています。
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