藤井寺市は大阪府内で最も小さな市として知られていますが、大阪市の南東部に接する近郊ベッドタウンとして発展しています。藤井寺はその市名の通り、西国三十三ヶ所観音霊場・葛井寺に由来しますが、古代河内国の国府が置かれた地とされ、市内には大小数多くの古墳が存在し、古代律令時代における政治の中心地だったといわれています。
やがて中世から近世ごろになると、大和川舟運をはじめ、東西に通る竹内街道・長尾街道(古代の大津道)とこれに高野山へと通じる東高野街道が交差する、水陸交通の要衝として経済的に繁栄する町となります。また周辺の農村部も大消費地大阪の近郊農村として商業的農業経営がおこなわれ、河内木綿で知られる農村工業で潤っていきました。
市名の由来でもある真言宗御室派の葛井寺は奈良時代創建の古刹で、江戸時代から藤井寺南大門前には参詣客相手の旅籠が建ち並び門前町と化していきました。 葛井寺は西国三十三ヶ所観音霊場の第五番札所でもあり、第四番札所・施福寺や第六番札所・壺坂寺へ通じる道は人の往来が激しく「巡礼街道」と呼ばれていました。中でも毎年8月9日の「千人詣り」ではピークを迎えます。
藤井寺の歴史を見ると、西国三十三ヶ所観音霊場・葛井寺の門前町として発展した町と諸街道及び大和川水運で経済的に発展した地域に分かれますが、今回訪れたのは葛井寺の門前町です。葛井寺は駅からも近く周辺は商店街と住宅地域として開発が進み、ほとんど往時を偲ばせる家並みは残されていません。唯一同寺の南門から南に延びる道筋に、今回この町を訪れた目的の一つである藤本酒造場を中心とした白壁の町並みが残されていますが、その酒蔵の周囲も閑静な住宅街となっています。しかし周辺を歩くと、その住宅地の中に埋もれるように、かつて経済的に財を成した豪農の屋敷が散見されました。
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