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平野
ひらの
 要塞のような自治都市として栄えた商都
 大阪府大阪市平野区平野本町
商家・町家・土蔵  地域内施設  JR関西本線(大和路線)・平野駅
 
 
大阪市の南東端に位置する平野区平野本町は、大都市圏近郊に位置しながらも、今なお江戸期から明治、大正期にかけての町並みを残す歴史的、文化的にも貴重な町の一つです。

平野は平安期から鎌倉期にかけて融通念佛宗大念仏寺の門前町として発展し、戦国期には末広氏を中心とする七名家を主導者とする在町平野として、堺と並ぶ自治都市に成長します。集落の周りを二重の堀と二重の土居で囲んだ要塞のような環濠集落であり、集落には13箇所の出入口が設けられ、各地への街道が通じる交通の要地でもありました。

戦国期から末広氏による南蛮貿易によって富を築いていた平野は、つねに時の為政者と深い結びつきを得ていた為に、争奪の場として戦乱に巻き込まれ続けており、大阪の役で町は完全に焼失してしまいました。しかしこの戦いで平野の衆は徳川方に協力した功によって、その後平野は幕府の直轄地となり、今に残る碁盤目状の町並として復興しました。末広氏はこの天領平野の代官にも任命されています。

南蛮貿易はその後の鎖国政策によって終止符を打たれますが、江戸期をとおして平野は河内木綿の集散地として繁栄し、人口一万人を越える商都として繁栄します。平野市之町では毎日、綿市が立てられていました。

平野本町の町割りは東西に広いメインストリートが延び、南北に細い小径・路地で結ばれています。東西のメインストリートには大正・昭和初期の町並みが連なりますが、南北の細い路地には比較的古い、幕末から明治期にかけての伝統的な町家建築が多く見られました。

現在平野では町ぐるみで組織する「平野・町ぐるみ博物館」というナショナルトラスト運動に通じるミニ博物館運動を行い、町並みの保全に努めていました。
 
 
 
平野は横の筋よりも縦の小路に町家が多く見られます