大阪の北西部。猪名川をはさんで兵庫県と接する池田は、五月山の南麓斜面に池田城と中心とした城下町に始まり、その後北摂の中心商都として栄えた町です。
室町期よりこの地を支配し続けていた池田氏は摂津三大土豪と呼ばれていましたが、その後急速に没落を始め、最後は家臣によって城を追い出されてしまいます。江戸時代になると池田城は破却され、池田は北摂における商業の中心地として発展していきます。
池田は銀山道とも呼ばれた能勢街道筋にあたり、村の南を西国街道、その他有馬温泉に通じる有馬道、巡礼道の中山道・亀岡への余野道・高山道が通るなどまさに交通の要衝で、これに猪名川舟運を加えて物流の一大集散拠点となった事が、商都として発展する要因でした。
地場の産業としては、中世から「呉服の郷」として知られてしましたが、「池田炭」などの木炭製造のほか、池田の近郷で生産された米を原料とした「池田酒」は特に有名で、応仁年間(1467〜69)に「酒造御朱印」を手に酒造業をはじめた万願寺屋に始まります。
当時甘口主流の時代において、「辛口」の酒を売り出した「池田酒」は、たちまち盛況となり、江戸でも大ヒット。最盛期には38軒の造り酒屋がこの池田にはありました。
しかし、その後は”宮水”が発見された灘にその座を奪われ、また池田酒の中心であった満願寺屋の失脚と酒造免許の剥奪によって、池田の酒造りは大きく衰退します。
現在池田の地酒蔵は「呉春」の一軒のみで、(酒造会社は2社ありますが、もう1社は依託醸造となっています)この唯一の池田酒である「呉春」は、地元でも手に入れる事が困難な人気酒として知られています。
池田の町はかつて、現在の阪急池田駅から綾羽にかけて古い商家や旧家が軒を連ねていたと言われていて、本町筋、新町筋の商家町、中之町筋の問屋町などがあり、それらは戦災をもまぬがれていましたが、その後駅前の急速な開発によって今はほとんどその姿は失われてしまいました。
池田駅を下りて、今はアーケードの商店街に姿を変えた本町(栄町・栄本町)を抜けて、綾羽にある「呉春」の酒蔵を目指します。この呉春から西の西光寺界隈に古い佇まいの旧家が点在する形で残されています。また旧能勢街道沿いでは、古い商家などを修復して歩道を石畳にするなど町並みの整備が進められていました。
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