平安時代に宇多天皇の勅旨田に発すると伝えられる「宇多大津」。和泉国の外港であり中世には大津御坊と呼ばれた浄土真宗南溟寺の寺内町として町場が発達したと言われています。
古くから街道の分岐点として栄えた要衝で、江戸期に入ると紀州藩によって参勤交代路である紀州街道の大改修が行われ、東に平行して走る小栗街道とともに堺と和歌山を結ぶ幹線道路となり、大津浦は街道沿いの在郷町として繁栄しました。
また江戸期頃からは、和泉木綿の集散地として木綿問屋が立ち並び、続いて綿織物の最盛期には、実に町家の約7割が綿織物関係に従事したといいます。
大津の繊維業は一時期衰退しましたが、日清戦争による綿毛布の需要を契機に生産は拡大、繊維の町は今に続いています。
都市化が進み、埋立による沖への拡大が進む中で、かつての大津湊と呼ばれた場所は内陸部になってしまいました。田中町商店街のはずれ、本町から神明町と浜通りと呼ばれる道筋の両脇には所々に商家が軒を連ねますが、中でも旧大津港の漁港だった東港町は重厚な商家が最も多く残されている地区です。
幕末から明治期に建てられた商家は二階建ても多く、和泉地方のに多く見られる黒漆喰仕上げの塗籠造りと千本格子の街並み。残されている建物のほとんどは繊維業などで富を築いた豪商の町屋敷で、しっかりと手入れされ、連続性はなくても見応えは十分にありました。
この地区に限らず泉大津を歩くと、伝統的建造物が以外に多く残されていました。
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