町中を破壊しながら暴走する”だんじり(地車)祭り”で有名な岸和田。
本町の市役所別館の裏手には、旧紀州街道筋に発展した古い商家の街並みがおよそ300mにわたり残されています。
店舗と住居を表裏に接続して建てる「表屋造り」に、厨子二階の塗籠造りで建物や塀は黒漆喰が施された重厚な造りが特徴。歯が抜けたように所々取り壊された跡地が目に付くもの
の、まさか中心市街にこれほどの街並みが残されていようとは、思いもよりませんでした。
南北朝時代、楠木正成が河内・和泉の守護に任じられると、正成の一族の和田高家が代官としてこの地に入りました。堺を拠点としていた和田氏に対し、この地に赴いた和田氏を「岸の和田」と呼んだことから岸和田の名が付いたと言われています。
紀州の根来・雑賀衆および紀泉の一向一揆の討伐を試みた織田信長は、本能寺の変で明智光秀の謀反により討死しますが、跡を継いだ秀吉は根来・雑賀衆の押さえとして中村一氏を岸和田に配しました。
天正13年、秀吉は10万の大軍を率いて紀州討伐を行い紀州を平定。
小出秀政が岸和田に入封され、この時より本格的な城の建設が始まります。
関ヶ原の戦い後、岸和田には丹波篠山から松平康重が5万石で入封して城下町の整備を引き継ぎますが、わずか二代で播磨山崎へ転封となり、かわって岡部宣勝が摂津高槻から6万石で入封し、幕末まで岡部家による支配が続きます。
豊臣が滅び、戦後処理が一段落すると、幕府はその基盤をさらに固めるために数多くの大名家を取り潰しました。町には幕府に不満を持つ浪人があふれ、やがてこの不満は由井正雪の乱など浪人による反乱へと発展します。
しかし、 これら事件の背後には御三家紀伊徳川家の関与が疑われていました。
その為和歌山に最も近い岸和田には、信頼のおける重臣を置く必要が生じ、家光の指示によって岡部氏が紀伊藩の監視役として岸和田に封じられたのです。
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