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守口
もりぐち
 大阪は目前・京街道五十七次宿場町
 大阪府守口市本町2丁目
商家・町家・土蔵  駅周辺施設  京阪本線・守口市駅
 
 

再開発が進む京阪守口市駅前の近代的なビルやマンションの間に、ちょっと場違いな古いコンクリートの橋が架かっています。この橋の名は「本町橋」といい、この橋の上の道が旧京街道であり、江戸と京を結ぶ東海道の延長の道でもあるのです。

そして、この橋の前後に細長く続く”台地”こそが、豊臣秀吉が築いた堤防「文禄堤」であり、この堤防上の京街道沿いに同街道の宿場町、守口宿が往時を偲ばせる姿で残されているのです。

上の写真の道の奥にそびえるのが、守口市駅前再開発で建設中の高層マンションです。

文禄堤の上を走る京街道は、堤防の築造後に生まれた新しい京阪連絡道で、江戸時代中頃になると、京の三条大橋で終わっていた東海道53次が延長される形で、この京街道に接続。
伏見、淀、枚方、守口の4つの宿場を加えて東海道57次と呼ばれるようになります。
守口宿は大阪を目前とした、最後の宿場町でした。

ちなみに、東海道57次とした場合の東海道は、京の三条大橋までは至らず、大津宿の先の山科追分(髭茶屋追分)で伏見へとショートカットします。

江戸時代後期の『東海道宿村大概帳』によれば、守口宿の長さは南北約12町・東西約1町の規模で、問屋場1軒・本陣1軒、脇本陣は無く旅籠屋が27軒。大阪まで約2里の距離にあった為に旅人の宿泊は少なく、大名の参勤交代は淀川対岸の西国街道を利用。さらに淀川に面していながらも川舟との連絡がなかった事が、宿場町の発展を遅らせる要因となっていました。

延長約27.7kmあった文録堤は度重なる淀川の改修工事でその多くは姿を消し、現在この守口市駅前に残されていることは、奇跡的でありながら奇異的でもありました。