|
|
大阪の玄関口、大阪駅から南西へ約2.5kmほど下った場所にある野田地区は、戦災をまぬがれ戦前の町並みが多く残る福島区西地区の中でも、最も多くの長屋や町家が残されている場所です。
古くは淀川河口に広がる湿地帯のに大小さまざまな「島々」が点在する「難波八十島」の一つで野田洲と呼ばれていました。南北朝期から戦国期にかけてしばしば戦場となり、現在の玉川地区には野田城が築かれていました。西国大名との連絡拠点であったこの地は、本願寺派の三好三人衆が陣取り織田信長に対峙した「第一次石山合戦」などが知られ、また江戸時代には豊臣家最後の興亡である大阪冬の陣において、水軍同士の戦いである「野田・福島の戦い」も歴史的に有名な出来事の一つです。
野田村の一体は「南中島」と称され、江戸時代を通して幕府の直轄地。大阪城下近郊の農村である一方で漁業も盛んでした。
幕末から明治にかけて繊維産業を中心とした工業地帯となり発展しますが、戦時中はアメリカ軍の攻撃対象となり空襲を受けますが、現在の野田2丁目、3丁目、5丁目界隈は奇跡的にも空襲を免れた地区のようでした。
大阪中央卸売市場の北側。商店街通りを中心とした道幅の広い通り沿いには、戦前の大阪の下町らしい戦前の長屋や町家が広範囲にわたって軒を連ねていました。建物の多くは昭和初期のもので、大阪独特の装飾やエクステリアが特徴です。これら広い通りに直角に交わる狭い路地には、まるで一目から隠すように、大正期ごろかと思われる、伝統的様式の町家や土蔵がひっそりと残り、気がつくと裏路地探検に引き込まれていきました。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|