堺というの町の名の由来は、摂津・和泉・河内の三国の境界に位置する事から呼ばれるようになったといいます。
中世から近世にかけて、畿内最大の商都として発展した堺も、最初は小さな海辺の集落に過ぎませんでした。しかしその立地から南北朝時代には軍事物資の輸送発着地として発展し、室町時代になると、それまでの対明貿易港であった兵庫津(神戸市)が戦乱によって壊滅したことにより、それに代わる海外貿易の拠点港としてさらなる発展を遂げます。
堺の町は南荘と北荘が連合して都市を形成し、海に面した西側以外の町の周囲に濠をめぐらし、独立自治州のような共和政治がしかれていました。
しかし巨利を生む巨大商都は、しばしば権力者たちの争奪の的となり、戦国時代から大阪夏の陣にかけて幾度も堺の町は焦土と化しては再興を繰り返します。戦国時代には南蛮貿易で黄金期を迎えますが、やがて織田信長や豊臣秀吉によって再び焦土化し、ついにその支配に屈します。
堺の町が復興するのは江戸時代になってから、この元和の町割りでは近郊の農民を最東部に集めて農人町をつくり、その西側に大寺院を集めて寺町を形成。市街地は碁盤の目に町割りされました。
町の中央を南北に通る道が熊野街道で、その南北の両端に旅篭町を設けていました。熊野街道の西側、現在の国道26号線は中世の堺筋(現在の堺筋とは別)で、江戸時代になってから紀州街道として整備された道です。
江戸時代なり、幕府の支援で復興した堺の町ですが、この時代は鎖国が敷かれ、さらには港に流入する土砂の堆積によって港の機能それ自体を失ってしまいます。ところが、堺の商人たちは、転んでもただでは起きません。港を埋め尽くした堆積地に新田を開発、そこに綿を栽培しました。これが「河内木綿」として巨万の富を築き、やがて近世の紡績工業へと発展していったのです。
現在の堺の町は、戦災によって大部分が焼失してしまいましたが、江戸時代の町割りはほぼそのままの姿で残り、町の北側、九間町から北旅籠町界隈に、往時を偲ばせる町並みがわずかですが広範囲に残されていました。
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