東大阪市役所の西へ約1km。阪神高速大阪線と近鉄東大阪線が重なる巨大な高架のすぐ北側に広がる角田という地名の住宅街の一角に、古い農村集落の家並みが残されていました。この角田地区は平成5年に新しく名付けられて生まれた町で、それ以前は阪神高速大阪線の南側に広がる菱江地区の一部でした。この角田という地名は古くから存在し、かつては菱江村の北側地域を指す通称名であったものが、正式な地名となったものでした。菱江村の歴史は古く室町期には菱江荘として成立し、当時は「ひつせ」と読まれていたといいます。
現在、阪神高速大阪線と生駒山脈を抜ける第二阪名道路は大阪と奈良を結ぶ大動脈の一つですが、この道筋はその南側に併走する古くからの幹線道路、奈良街道暗越えを踏襲したものです。菱江村はこの奈良街道(暗越え)が村域を東西に通り、さらに交差して河内街道が南北に通る交通の要衝でありました。 こうして農村地域ながらも街道沿いに町場が発展しあたかも宿場町の様相を呈するほどに発展します。
明治2年の村明細帳には家数191軒のうち商家が53軒もあり、質屋、酒造家、醤油家の他各種商売がありましたが、中でも古道具屋が22軒も占めていました。
さて街道沿いの要衝として発展した菱江地区の北端に位置する角田地区は純粋な農村地帯であったと思われますが、大消費地大阪近郊に位置している事もあって、綿作物などの商品作物を中心に経済的に発展していたことが、現在地内に見られる大規模な屋敷群にそれを見る事ができます。この角田の中心に残る豪農屋敷の周辺は以前は田畑が広がっていたと思われますが、大阪近郊のベッドタウンとして新興住宅が開発される中で、地主でもあると思われるそれら古くからの旧家は、今なお衰える事なく、そしてこれからも暫くの間はこの家並みと共に続いていくものと思われます。
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