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京都と大阪のちょうど中間に位置する高槻市は古くから交通の要衝であると共に、軍事的な要地でもあって、江戸時代には高槻藩の城下町として栄えていた町でした。現在もその位置づけは変わらず、隣接するJR高槻駅と合わせた駅周辺は再開発が進められています。
そのうち、阪急高槻市駅前に賑わう商店街の一画に、高槻藩の城下町時代を偲ばせる伝統的な家並みが残されている事に驚かされます。現在この町並みは市によって整備保存が進められているため、開発によって消えていく杞憂は今のところありません。
中世鎌倉期にこの高槻を拠点としたのは入江氏ですが、「高槻城下十六町」と呼ばれた今に残る近世城下町が造られたのは、織田信長・豊臣秀吉の時代にこの高槻を治めたキリシタン大名の高山右近や新庄直頼の時代です。
関ヶ原の戦い後に高槻藩が成立。内藤家、土岐家、形原松平家、岡部家など譜代大名が短期間で入れ替わったのち、慶安2年(1649)に山城長岡藩から永井直清が3万6000石で入封し、明治まで220年間13代にわたって高槻藩を治めました。
高槻城は現在高槻市立第一中学校となっているあたりで、学校の南側が城跡公園として整備され、堀の一部も復元されています。明治に廃城となった高槻城は、東海道本線の建設資材に用いられたそうです。
駅前商店街の一画から始まる町並み保存地区は、国道171号線でいったん途切れますが、国道の対岸、大手町、京口町、上本町界隈にも城下町を偲ばせる家並みが広範囲に残されています。このあたりは、高層建築も無い閑静な住宅街ですが、それゆえに行政がどの程度町家の保全に関わっているかは分かりません。いずれも個人宅であるゆえに、もしかしたら駅前地区よりも先にこちらの町並みが消えていく可能性も否定できません。 |
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