高槻市中心部の南西に位置する富田の町は、中世以前より一向宗の拠点である富田御坊の寺内町として成立し、江戸期には摂津最大の酒どころとして発展した町でした。
現在も2軒の蔵が伝統の酒造りを受け継いでおり、それぞれの店蔵を中心とした古い街並みが残されています。
文明8年(1476)蓮如によって富田道場が創建されて以後、富田は一向宗派一門の拠点として発展し寺内町を形成していきました。
全国各地の一向宗勢力は時の領主と対立する一大勢力となり、ここ富田も細川勝元との一向一揆の戦いによって焼き払われてしまいますが、その後、細川氏と本願寺の和解によって教行寺(富田御坊)が再興されます。
信長、秀吉の時代になると「富田東岡宿」として楽市・楽座と公事免許が補償され、寺内町、宿場町、市場町の機能を合わせ持つ町として発展しました。
江戸時代に入ると富田は摂津一の酒造の町として有名になります。
富田一の豪商紅粉屋(紅屋)市郎右衛門一門は、関ヶ原の戦いで徳川方に協力した功により商業の特権を安堵され、酒造りを始めました。 富田の酒は急速に名声をあげ、最盛期には24軒もの酒蔵があったといわれています。
また、酒造りによって大量の酒造米を消費した為に、富田には米相場が立てられ、畿内の米相場決定に一役を担いました。
しかし江戸中期以降、池田・伊丹の酒や、灘・今津の酒が勢力を伸ばしてくると、富田の酒は衰退の一途をたどり、幕末に7〜8軒、そして現在は2軒が残るのみとなりました。
あまり知られていませんが、富田は大阪で最初に「地ビール」が造られた地でもあります。寿酒造では「大阪国乃長ビール」を蔵で飲むことができるのです。
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