一路一会古い町並みと集落・近畿>大阪>富田林
  富田林
とんだばやし
 河内地域で最大級の街並みを残す寺内町
 大阪府富田林市本町・富田林町
商家(本瓦葺き)・町家・土蔵  なし 近鉄長野線・富田林駅
 
 

大阪最大の古い街並みを残す町で知られる富田林は、高槻市の富田や貝塚などと同様に一向宗一門の寺内町として成立しました。富田というのは皇室御料を意味する「屯田」に由来するので、全国各地にその地名はあります。

石川左岸に位置する河岸段丘上に今も往時の姿を残す富田林は、古くは富田の芝と呼ばれた荒れ地でした。永録元年(1558)に、京都興正寺の第14代証秀上人がこの地を買い受け、近くにあった古御坊をこの地に移して興正寺別院とし、富田林と改めます。この富田林寺内町の建設に携わった近隣4ヶ村の名主「八人衆」は
町年寄として町政を担いました。

富田林は御坊を中心に7筋8町に町割りされ、南北の通りを「筋」、東西の通りを「町」といいます。さらに町の外郭には堀を張り巡らし、4門を設けて町を守りました。この平和な環境は各地から商人を集め、富田林は在郷町として急速に発展していきます。しかし時代が経ち商業経済の中において新興勢力「六人衆」が台頭してくると、旧来からの特権を有して富を独占してきた「八人衆」はその地位を追われてしまいます。

富田林の主な産業は木綿でしたが、その後酒造業がとって変わり河内最大の酒どころとなります。しかし、これも摂津富田同様に灘や伊丹の台頭によって衰退し、現在は1軒も残っていません。

近鉄長野線富田駅から500mも満たない場所にある富田林町。駅前に立地するため周囲はビルなどの駅前市街地が迫っていまが、少し高台に位置する為に喧騒はうまく遮断され交通量も無いに等しく、みごと別世界を作っていました。

町内の道は車が一台ギリギリの幅で、地図では碁盤の目の様に見えますが、実は辻の部分で僅かにずらされている。これは「あてまげ」と呼ばれ町を見通せないようにする戦国期からの工夫なのですが、現在は町内を通過する車にギリギリの低速度を強いる事に役立ち、一通が複雑に入り組んでいるため町内を通過する車はほとんどありません。通りには人影もほとんど無く、ひっそり静まりかえった富田林の町は古い街並みだけでなく、時間も閉じこめているように思えます。