永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長は抵抗する六角氏攻め落として近江を手にしました。そして戦略的要衝であるこの地の重要性に気づき、豊浦の安土山に七重の天守閣をもつ、歴史的にも有名な安土城を完成させました。
信長は同時に楽市・楽座を設け町人の課役免除の他、商人の通行や馬市を同町で義務付けるなど城下町の整備も行います。その影響を受け豊浦や常楽寺などの湖岸一帯は湖上交通の要衝として繁栄しました。
天正10年に本能寺で信長が亡くなると近江43万石は豊臣秀次に引き継がれます。
しかし秀次は居城を近江八幡に移した為、安土は元の農村に戻ってしまいます。
湖岸から縦横に張り巡らされたクリークは近江の水郷として特色づけられ、安土もまた水運を利用した漁業や回漕業など湖上交通が盛んでしたが、江戸期から始まった干拓による新田開発によって次第にその姿を消し、明治の東海道本線の開通によって終焉を迎えます。現在のJR安土駅前に位置する常楽寺は、この町域で最も栄えた港町であり、また最後まで残った湊でもありました。
この常楽寺湊付近に今も伝統的な古い街並みが残されています。全国的に知られる安土城址からはかなり離れていますが、安土の玄関口に位置する常楽寺の街並みは時代や性格が違うものの、十分文化的価値を秘めているものと思います。
現在の街並みはおそらく住民の努力にによって維持されているように感じますが、
行政のサポート無しでは、おそらく長くは残らない環境です。
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