滋賀県の湖東地域は多くの近江商人と呼ばれる豪商を生み出しました。八幡商人、五個荘商人、そして日野商人。この日野町は蒲生氏郷と日野商人の町です。
奥州藤原氏の流れを組む蒲生氏は鎌倉時代から豊臣秀吉の時代まで、およそ500年の間、近江湖東128郷の支配者として君臨しました。
南北朝時代に蒲生定秀は日野に拠点を移し、武家や商人を集めて日野城と城下町を築きます。蒲生氏はその後織田信長や秀吉に組みして生き残ります。
蒲生氏郷は城下に楽市楽座の制をしいて商工業の振興に力を入れ、日野商人輩出の基礎を整えます。
秀吉政権下で数々の功績をあげてきた氏郷は、日野6万石から松阪12万石、さらに同じ都市に会津若松42万石へ転封となり、故郷から遠く引き離されてしまいます。
出世階段を上っていくようにも見えますが、その実は蒲生氏の力量を恐れた秀吉による左遷でした。
松坂へ、そして会津へ。氏郷と供に日野から多くの商人や職人がついて行きました。
「三越」の創始者である三井家は、氏郷が日野から松阪に移った際呼び寄せられた商人の一人であり、氏郷会津移封の際には誘いを断って松阪に残った商人の一人です。
城下町でなくなった日野の町は衰退し、人々は天秤棒を担いで全国を行商して歩きます。これが日野商人の始まりです。
やがて富を築き始めた日野商人は行商から店舗経営に移行し、本家・本店の置かれていた日野には豪荘な屋敷が建てられていきます。これが、今に残る日野の街並みの中心となっています。
全国を行商した日野商人は、日野を製薬の町へと変えました。日野のメインストリートある正野家は、日野商人の道中薬として「感応丸」を最初に考案しました。
日野商人によって「感応丸」が各地で評判を呼ぶと、この薬を製造する製薬業者も200軒を超え、製薬の町へのきっかけを作ったのです。
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