湖北地方の東側に位置する旧東浅井郡浅井町。その町域を貫流する草野川を上流へ遡っていくと鍛冶屋という名の集落があります。地名から推測して、おそらく鍛冶職人集団の集落であり、さらに現在は廃業してしまっていますが、一軒の酒蔵もあって訪れてみることにしました。
鍛冶屋という地名は戦国時代に織田信長から今浜(現在の長浜)を拝領した木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、この集落に住む鍛冶屋集団に武具や槍の製作を命じた事に始まるといいます。それまではこの地域を総称して草野と呼ばれていました。またこの地で生産された槍は「草野槍」の銘で知られ、当時秀吉勢が使用した槍の1割を占めていたといいます。
平安時代から草野荘と呼ばれていたこの地ですが、この草野という地名は、源頼朝が大和国宇多郡(奈良県)草野村から鍛冶職人をこの地に招いた事に由来します。以後その子孫によって鍛冶職人集落へと発展していきました。
戦国時代に武器生産で栄えた草野鍛冶ですが、やがて江戸時代の太平の世が訪れると、クワやスキなどの農具生産へとシフトしていきます。この地で草野鍛冶は昭和初期まで続いています。
鍛冶屋から草野にかけての集落は、県道高山鍛冶野線に沿って街村を形作っていますが、新しい県道のバイパスが草野川を挟んだ対岸に建設されている為、旧道沿いは非常にひっそりとした往時のままの静寂を町並みと共に保っていました。ただし鍛冶を打つ音だけは今はもうありません。
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