南の桝形に建つ丸八百貨店は登録文化財
琵琶湖の西、安曇川をさかのぼって深い山中へ入っていく。周囲を標高500~900mの山々に囲まれた朽木谷と呼ばれる山間の盆地に朽木市場の町はあります。 僻地の山里と思いきや、そこには町がありました。ここは京と日本海側の玄関口である小浜を最短で結んだ朽木街道、別名「鯖街道」沿いにあり、その宿場町であると供に、鎌倉時代から明治まで650年続いた、朽木氏の陣屋町でもありました。
若狭の海産物を京へ運ぶ「鯖街道」と呼ばれる道は、名田庄(福井県)経由や鞍馬経由など京と若さを結ぶいくつものルートがありましたが、京の大原口から花折峠を越えてこの朽木を通り、熊川を経由して小浜へといたる、現在の国道367号線と重なるこの道が最も歴史が古く、また主要道路で交通量も多かったのです。そのため朽木は古くより重要視されてきました。
鎌倉時代に近江国守護となった佐々木信綱が、承久の乱の戦功により朽木荘を与えられ、曾孫の義綱の代から朽木氏を称するようになります。朽木は近江・若狭・丹波・山城の国々に囲まれた辺境の地で、戦国期には京都を逃れた5人の足利将軍をかくまいました。
さらに中興の祖といわれる十五代元綱は、浅井氏の裏切りで窮地に立たされた織田信長を助け所領を安堵。信長やその後の秀吉に属しますが、 天下分け目の関ヶ原の戦いでは、始め西軍に属してたものの徳川家康に内通していた為、戦後は減封となったものの所領を安堵されます。この時朽木氏は9500石の寄合旗本でしたが大名と同じく参勤交代を行いました。
外様でもある朽木氏の宗家はこの山間の小さな陣屋で藩政を行いましたが、その子孫の多くは徳川将軍家に使え若年寄まで出世したものもおり、中でも朽木稙昌は、幕府奏者番を勤め丹波福知山藩3万2000石の”譜代”大名へと大転身していきます。これにより本家外様、庶流譜代という逆転ねじれ現象が生じていますが、御家安泰すべて良しといったところでしょうか。
さて、この朽木村の中心地、”市場”地区は今さらながら朽木陣屋の下に発達した市場町でした。鯖街道の宿場町でもあり朽木氏の陣屋町でもあった為、町場の前後には街道を直角に2度曲げた桝形が設けられ、さらにその先にも街道は複雑に折り曲げられています。 鯖街道こと朽木街道はそのほとんどがV字渓谷の平地の乏しい険しい山中を南北に走っていますが、この朽木村が置かれている場所だけは広い盆地が広がっており、中世から続く城下町(近世は陣屋)がこの地に置かれた事に、その合理的な必然性を再認識させられました。
朽木市場の町並みは平入り塗籠造りに虫籠窓や千本格子の商家や町家が残されていますが、必見なのは南の桝形付近に立つ洋館で、この建物は昭和8年に建てられた丸八百貨店です。一見鉄筋コンクリート造にも見えますが、実は木造3階建の擬洋風建築です。 おおよそ、山間に残された小村とは思えない街並みが残っていますが、この鯖街道がかつて、多くの人や物資が行き来して栄えた道である事を朽木市場の町並みは静かに語り、旧道をバイパスしている国道は、現在も京都と若狭を結ぶ裏街道として、意外にもその交通量は多いのです。
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