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  水口
みなくち
 東海道五十次之宿場町・加藤家水口藩2万5000石の城下町
 滋賀県甲賀郡水口町元町・本町・梅ヶ丘・城東 【滋賀県甲賀市水口町】2004年合併

 構成:商家・町家・土蔵・酒蔵  駐車場:なし
 
梅ヶ丘・城東付近の街並み

東海道の宿場町にして城下町でもある水口の歴史は古く、古代甲賀駅が置かれ、中世には市が立ち人や物資の往来で賑わっていた事が伺えます。
交通の要衝であった水口は蒲生郡一帯を一望できる軍事的要地でもあり、豊臣秀吉は大岡山に水口岡山城を築かせ中村一氏を配し、山麓の集落を城下町に整備しました。

関ヶ原の戦い後、水口は幕府直轄地となり東海道の宿場町として整備されます。
宿場の規模は本陣1軒・脇本陣1軒・旅篭41軒でしたが、多くの旅人が京を出て最初に宿泊した石部宿と東海道随一の難所鈴鹿峠を控えた土山宿の間に位置していた為に、宿場の規模は大きく無かったと言います。

江戸時代に新たに築城された水口城は、徳川将軍家の京上洛の際の宿泊施設である
「御茶屋」として整備されたものでしが、実際に将軍が宿泊したのは三代将軍家光の1回だけでした。堀が湧き水で常に満たされていたことから「碧水城」とも呼ばれていました。

天和2年(1682)加藤明友が2万石で入封し水口藩が成立します。加藤明成の祖父加藤嘉明は賤ヶ岳七本槍の一人として知られ、会津20万石を領する大大名でしたが、子の加藤明成の御家騒動で加藤家は改易となります。しかし名家が絶えるのを惜しんだ将軍家光は、子の加藤明友に石見吉永1万石を与え、家名を存続させます。水口2万石を与えられた加藤家はその後下野壬生へ移されますが、寺社奉行、若年寄など幕府要職を歴任し、5000石加増のうえ再び水口へ戻され以後9代続いて明治を向かえます。

城下町・宿場町として栄えた水口ですが、今はその面影はほとんど残されていません。旧東海道が通る三筋の町割の遺構が水口の名風景として知られています。
本町には元録13年(1700)創業で300年続く現役の旅館「枡又旅館」がありましたが、残念ながら近年廃業してしまいました。
元町には脇本陣の遺構と、若干ながら往時を偲ばせる街並みが残されています。


元町の旧東海道筋の街並み
本町の三連土蔵街
水口の酒蔵          
清酒 「笑四季」 笑四季酒造 滋賀県甲賀郡水口町本町1-7-8 0748-62-0007
 
清酒 「美冨久」 美冨久酒造 滋賀県甲賀郡水口町西林口3-2 0748-62-1113
 
清酒 「みなくち」 西田酒造 滋賀県甲賀郡水口町松栄1-29 0748-62-0046
 
清酒 「神開」 藤本酒造 滋賀県甲賀郡水口町伴中山696 0748-62-0410
 
清酒 「貴生娘」 滋賀酒造 滋賀県甲賀郡水口町三大寺39 0748-62-2001