元浜町の北国街道沿い「黒壁スクエア」
奥琵琶湖とも呼ばれる琵琶湖北東部の中核都市・長浜市は豊臣秀吉が開いた城下町と旧北国街道沿いに古い街並みが残る宿場町・城下町と2つの顔を持つ町として知られ観光客で賑わっています。 長浜駅前通りを境に、南の朝日町には白壁商家や町家の落ち着いた雰囲気がある一方、北の元浜町には幕末から明治期にかけての重厚な商家とレトロな擬洋風建物が混在する観光ストリートで黒壁銀行の愛称を持つ「黒壁ガラス館」が街並みの中核的シンボルとなっています。
また北国街道の街並みには建物を「のこぎり状」に不規則に建てた「武者隠れの道」とよばれる中世城下町の遺構が残されています。これは戦時における市街戦を想定したもので、この町が戦国時代に豊臣秀吉によって築かれた長浜城の城下町でもあることを色濃く物語っています。
織田信長が浅井氏を滅ぼすと、今浜とよばれたこの地を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に与えました。木下藤吉郎はこの時から名を羽柴秀吉と改め、今浜の地名も長浜としたのです。秀吉は碁盤の目の城下町を建設し、旧領から商人を呼び寄せ楽市楽座によって城下町を活性化させます。
黒壁銀行の愛称をもつ「黒壁ガラス館」
豊臣秀吉無き後、天下分け目の戦い”関ヶ原の戦い後”に内藤信成が4万石で長浜藩に封じられます。大坂城の豊臣氏と北陸諸侯が通ずることを警戒するための措置でしたが、元和元年の大坂の陣で大坂城が落城し豊臣氏が滅亡すると、その軍事戦略的意義がなくなり、長浜城は破却されて彦根藩領となります。ちなみに現在町のシンボルとなっている長浜城の天守閣は1983年に復原されたものです。
この城下町の琵琶湖畔に整備された長浜港は松原・米原とならぶ彦根藩三港の一つとして重要な水陸交通の要衝であり、江戸期には彦根藩における重要な商都としてこの長浜を発展させていく大きな港でしたが、現在は豊公園、ホテル、ヨットハーバーと一体で整備された小さな観光港となっています。
現在この長浜に残る古い町並みは、「黒壁スクエア」を中心とした長浜駅北側に広がる元浜町の北国街道沿いと大通寺の門前通りが主な観光名所となっているように、非常に密度の濃く、また重厚な町並みを見る事ができますが、一方で駅の南側、朝日町界隈には連続性は無いものの、生活に密着した白壁の商家や町家が今もなお色濃く残されていると同時に、観光客の少ない静かな町並みを散策する事ができます。 しかし、この長浜が国の重伝建(重要伝統的建造物保存地区)に指定されない事が不思議でなりません。
朝日町は白壁の商家や町家が残る生活の町
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