比叡山の東の裾野にある坂本の町は、天台総本山延暦寺の玄関口として、また全国3800の”山王さん”の総本山日吉神社の門前町として栄えました
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最澄により開かれた比叡山延暦寺は平安時代から室町時代にかけて6,000を越える坊を有し、延暦寺の台所をあずかる坂本の町も、3,000を越える町並みと1万人以上の人口を抱えていました。さらに町は全国から集まる参拝客で賑わい、全国の寺社領から集まった物資であふれています。
しかし、巨大な権力と軍事力を有する延暦寺は時の権力を脅かし、天下統一を目指す織田信長に対しては、反信長の政策に出たため、元亀2年(1571)ついに信長による延暦寺への総攻撃が行われます。
比叡山焼討ちの後、明智光秀が滋賀郡の支配を命じられ坂本城を築城します。
しかし、城下町坂本も、明智光秀の起こした”本能寺の変”によって終わりを迎えます。延暦寺は秀吉や家康の支援によって復活しますが、すでに政治経済の中心は大津へ移っており、坂本の町は大きく発展はしませんでした。
現在坂本の町には古い商家なども残ってはいますが、メインはやはり「穴太積み」の石垣に囲われた屋敷群です。これらの屋敷は修行を終えた僧侶が下山して住んだ隠居坊であり、里坊とも呼ばれています。
「穴太積み」とは古来からの坂本を拠点とした石工集団である穴太衆によって、生まれた石積み方で、大小の野面石を加工せずに積み上げていく野積みに似てはいるものの、高度に計算された重力設計がなされ、大変な堅固さを誇り全国各地の名城にも携わっていました。しかし、現在この技を受け継ぐのは1家のみとなっています。
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