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奥琵琶湖とも呼ばれる湖北地方、琵琶湖に突きだした葛籠尾(つずらお)半島の先端に形成された小さな入江の奥に菅浦という名の小さな集落があります。
集落の背後にまで山腹が迫り、隔絶された陸の孤島の地ゆえに、古くから「隠れ里」とも言われていました。集落へは山を越えるか、舟で湖側からしか出入りができませんでした。
しかし菅浦集落の名は万葉集にも読まれるほど古く、広く知られていたのです。古代より湖上交通の要津であったと共に、菅浦の住人は鎌倉期ごろから朝廷の御厨子所・内蔵寮に属する供御人として認められていました。また竹生島の山門の支配を受けていた事で、高い格を有していたのです。これらの事から菅浦は自由な行動が保証され、全国でもいち早く、惣
(そう)と呼ばれる独自の自治が行われていました。菅浦の惣行政は乙名、中老、宿老、若衆と呼ばれる東西各10名、計20名によって運営され、独自の法律も定めていました。
もっともこの特権が、周辺村落との間で軋轢を生み、長い争いの始まりでもありました。
集落の東西の出入口には「四足門(しそくもん)」と呼ばれる茅葺き屋根の門があり、関所の役割と共に、有事の際には倒壊させてバリケードにしたという説も残されています。
現在は湖周道路が整備されて陸路がつながると共に、昭和46年には有料道路の奥琵琶湖パークウェイが開通。菅浦はその入口にもあたり、その近くまではシーズンによって交通量がありますが、多くは通過交通であり、菅浦集落は置き去りになっている恰好です。しかしそれが奏してか集落には喉かな平穏が保たれ、知る人ぞ知る「隠れ里」、奥琵琶湖の聖地として今も息づいています。
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菅浦集落の玄関口に立つ西の四足門 |
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東の四足門 |
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