古くから交通の要衝であった八日市は、その名の通り毎月八の日に市が立っていた事に由来します。中世にはすでに近江国第一の市場町として繁栄していたといいますから、その成立は遙かに古いことが分かります。この一帯は比叡山延暦寺の荘園で、この地域を開墾した初代僧侶「得珍」から得珍保(とくちんのほ)と呼ばれていました。やがてその一部、保内郷と呼ばれるこの地で後に近江商人となる原点の「保内商人」が誕生しました。
八日市は東西南北に街道が交差する町ですが、町を東西に通過する八風街道は、永源寺町から鈴鹿山脈の難所八風峠を越えて伊勢・尾張を結ぶ道で現在の国道307号線に相当、一方南北に通過する御代参街道(ごだいさんかいどう)は、中山道愛知川宿と東海道土山宿を結ぶバイパスで、「東海道脇街道 」または「北国越安土道」が正式な名称です。江戸期に春日局が伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際に整備された道と言われ、その後も京の公卿たちの伊勢神宮と多賀社への名代がこの街道を利用した事から「御代参街道」の呼称で呼ばれるようになったといいますが、幕府の正式な名称ではなく、公式の資料にこの街道の名前は登場しません。
八日市で市場が最初に開かれた場所は現在の小脇町近辺でしたが、保内商人の活躍した中世には町の南側にある今堀町が中心となり、現在の中心部に移るのは明治から昭和にかけての事だそうです。伊勢越え商人団の一つである保内商人の主な商品は呉服や紙でしたが、鎌倉時代になると五固荘や愛知川、蒲生町の商人と提携して市場を独占し、四本商人(小幡・保内・沓掛・石塔の商人)と呼ばれるようになります。
この八日市で開かれていた定期市は実に第二次大戦頃まで長きに渡り続いていたといいます。 現在の八日市中心部は市街化とその後の過疎化がWで進み、往時を偲ばせる古い街並みはすでに殆ど見ることができませんが、伝統的な家屋がわずかながら2つの街道沿いに見る事ができます。本町・清水1丁目・金屋1丁目の境が八風街道と御代参街道の辻であり、石の標識が街道情緒を残していました。
また、本町にあるアーケードに覆われた商店街を構成する商店のほとんどは、正面店舗部分を看板建築に改築していて分かりませんが、一歩裏手に回ると重厚な商家建築がギッシリと立ち並んでいることが分かり、かっての町の中心がこの場所で間違い無いことを確信させられます
|