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加太
かだ
 古代より四国への渡津として栄えた港町
 和歌山県和歌山市加太
商家・町家・土蔵  なし 南海電鉄加太線・加太駅
 
 

和歌山県の北西端、大阪府岬町にほど近い加太の町は、和歌山山脈が紀淡海峡に落ち込む先端の堤川河口に開けた港町です。加太という地名は「干潟・潟海」に由来するといい、比較的平坦な地形に民家が密集しています。
この港は古来より淡路島・四国への渡海港として栄え、南海道の駅家・賀太駅が設置されていました。
江戸期には諸国廻船の寄港地、渡海船の根拠地の機能を兼ね、大阪や堺に並ぶ商業港と称されていました。当時の家数は500軒弱で人口は1,700人ほどでしたが、一部記録では千軒もの家並みがあったと記されています。

明治期以降も和歌山と大阪を結ぶ定期航路の港として栄えましたが、明治36年に南海鉄道
(現・南海電鉄)和歌山ー難波間が開通した事により、貨客港としては衰退を余儀なくされます。
和歌山の表玄関としれ古い商港であった為か、多くの漁村集落に見られるような、細い迷路のような路地は少なく、比較的整然と区画され、商家建築や土蔵が多く見られました。

加太と言えば、淡島神社が有名で、実質的に同神社の門前町的性格も有しています。
淡島神社は加太淡島神社とも呼ばれ「アオシマさん」の名で親しまれています。式内社「加太神社」の比定社の一つで全国にある淡嶋神社の総本山でもあります。この神社は豊臣秀吉の紀州侵攻で破壊されましたが、その後浅野幸長の手で再建され、江戸期の紀州徳川家によって現在の姿となりました。この淡島神社は全国でも珍しい、人形を供養する神社として知られています。古くは紀州徳川家から奉納された雛人形を初め、全国から寄せられた約3万体の古い様々な人形が、本殿へ並べられ、供養を待ってます。その後継は壮観を通り越して溝口正史の怪奇小説を思わせる異様ぶりです。


 
 
 
 
堤川沿いの煉瓦造り土蔵