高野山北麓に位置する町九度山は古くから高野山の登山口として、また物資の集散地として栄えました。今も古い街並みが残る旧街道筋は、紀ノ川に合流する丹生川の舌状丘陵状に細長く形成されています。
丹生川対岸にある慈尊院は、高野山の開山のときに山麓の拠点として開かれ、登山口であると共に、高野政所として重要な役割を担っていました。高野政所は高野山の寺領や諸国からの年貢を集めるための代官所であり、また皇族や貴族の宿泊所、いわば大名の本陣的な施設です。
しかし江戸期に入ると、橋本方面から学文路(がくむろ)を登山口とする新しい参道が開かれますが、九度山は高野山を支える物資の集散地として、河岸も賑わいをみせました。
明治34年、紀和鉄道(後の国鉄和歌山線)が開通して高野口駅が開設されると、九度山を経由する新しい参道が開かれます。九度山の賑わいは、南海鉄道や自動車道が高野山まで直接乗り入れるまで続きます。
その後の国道の新道や県道は、丘陵の馬の背上につくられた狭小地の九度山の町域を避けて迂回した為に、旧高野参道沿いの町並みが残されることになりました。
土地が少ないわりには、入母屋造りで家々の間隔も余裕があり、半ば自由な形で屋敷が建てられているのは、ここが高野山の自治圏だったからでしょうか?
もうひとつ、九度山にある真田庵は正式には善名称院といい、あの真田幸村親子と深い関係があります。関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・幸村父は高野山に配流され、この九度山で幽閉生活を強いられました。父昌幸はこの九度山で没し、幸村は後に大阪夏の陣で壮絶な最後を迎えたのです。
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