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福知山は明智光秀が中世の古城を改築して、この地を福知山と名付けたのに始まります。光秀はその後本能寺の変を起こして秀吉に討たれます。
関ヶ原の戦い後、 有馬豊氏が福知山6万石を拝領し福知山藩が成立。光秀によって始められた城下町はこの時にほぼ完成しました。
その後城主の変遷が幾度かありましたが、常陸土浦より朽木稙昌が3万2000石で入封し以後13代世襲して明治を向かえます。ちなみに朽木氏の宗家は近江朽木谷に鎌倉時代から明治まで一貫して在封した、1万石に満たない外様の寄合旗本という非常に稀な家筋なのですが、この福知山を拝領した朽木氏は関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った朽木元綱の三男稙綱が将軍家光に取り立てられて出世した譜代大名の家筋なのです。
福知山は丹波・丹後・但馬結ぶ水陸交通の要衝であり、江戸期から現在にいたるまで北近畿の政治・経済の中心です。旧山陰道は町の由良川の堤防上を通ります。福知山と京を結ぶ道でもあったので京街道とも呼ばれています。かつてはこの堤防に沿って宿場町がありました。
福知山は由良川の舟運によって栄えた町ですが、同時に由良川の水害との闘いでもありました。由良川の増水は度々堤防を乗り越え福知山城下は幾度も水没しました。その度に堤防が高く築き上げられるのですが、それもまた更新されてしまいます。こうした人と川のいたちごっこは昭和の時代まで続きました。堤防を見ると時代によって積み上げられた段差が一目で分かります。
堤防の沿った家々は母家に対して家の財産を保管する土蔵が、1段、2段高い位置に建てられています。母家の方も洪水時に荷物を階上へ避難させるための「タカ」と呼ばれる吹き抜けとテラス、荷揚げ用の滑車を備え、屋根裏には水屋(ミズヤ)とよばれる避難部屋が設けられています。
福知山市内にはあまり古い街並みは残されていませんが、この堤防に沿った旧山陰道沿いに伝統的な街並みが続いています。その中で長く呉服屋を営んでいた旧樋口邸を市が譲り受け、水害の歴史を伝える「福知山市治水記念館」として公開しています。
見学は無料で、街並みの案内もしていただけます。
切妻平入りの町家が続く街並みの中に、ひときわ目立つ重厚な屋敷がありました。現在は人が住んでいないそうですが、地元大企業の書類倉庫として管理されているそうです。 |
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