|
|
天正8年(1580)織田信長から丹後一国を拝領した細川忠興は宮津に居城を築きます。その後細川忠興は関ヶ原の戦いでの軍功により豊前中津へ封ぜられ、替わって信濃国飯田から京極高知が入国。3人の子に丹後国を分割し宮津藩・峰山藩・田辺藩が成立します。
峯山に入った京極高通は、近江朽木に朽木宣綱の二男として生まれ京極高知の養子
となり、将軍秀忠の小姓を務めていました。
京極高通は中世からの吉原山城(峯山城)に入らず、その麓に居館を建て、峯山藩は以後12代250年続いて明治を迎えます。
ちなみに宗藩の宮津藩京極家は、このあとすぐにお家騒動で改易されています。
峯山の丹後ちりめんは加悦の丹後ちりめんと競い合い、その結果「丹後ちりめん」のブランド力を高める事になります。
峯山は昭和2年の丹後大震災で破壊され、その後の復興で今に残る町並みの基礎がつくられたといいます。丹後半島2/3の町が合併して誕生した「京丹後市」の中心となり、陣屋町として発展した町だったので少し期待して訪れたのですが、意外なほど伝統的な建物は残されていませんでした。
|
|
|
|
|
|