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宇治
うじ
 世界遺産と宇治茶の里
 京都府宇治市宇治妙楽・蓮華
商家・町家・土蔵  有料P  JR奈良線・宇治駅/京阪宇治線・宇治駅
 
 
宇治という名は、宇治茶に始まり10円の裏に刻印されている世界遺産で国宝の平等院鳳凰堂など、訪れた事は無くても、誰もがその町と関わりを持っています。

宇治という場所は、古くから風光明媚な地ゆえに、平安期からは貴族の別業地(別荘地)として煌びやかな別業文化を生みだし、さらに宇治川の舟運、京と奈良を結ぶ街道の中継地として商業的にも栄えた町でした。

平等院鳳凰堂は平安期に左大臣源融(みなもとのとおる)の別荘跡を藤原道長が譲り受け、1052年に道長の子である藤原頼道がそれを寺院に改め、「平等院」と名付けて極楽浄土を現出させようとしたのに始まります。

宇治と言えば次に浮かぶのが「お茶」。古来お茶といえば「栂尾茶」が主流で、当時はまだ茶の扱いを受けていなかった「宇治茶」が、名実ともに「栂尾茶」を凌駕して本茶の地位を確立するのは、じつは室町時代に入ってからの事です。 足利将軍や幕府の保護を受けた宇治茶は、北山・東山文化における喫茶の流行によって急成長し、このとき宇治七名園が誕生します。以後、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康とその保護を受け、”茶の文化”を築きあげると供に、宇治茶は日本茶の代名詞を得るにいたったのです。

宇治の町が大きく変わるのは秀吉の時代になってからです。伏見に築城をはじめた秀吉は、宇治川流路の付け替えという大事業を行いました。現在その遺構として残る巨椋池干拓地。 かつては伏見と宇治の間に広がる広大な池であり、この小椋池の水上交通が宇治を商業的な拠点としていたのです。 秀吉は伏見城下に水量豊かな宇治川を引き入れ、陸路、水路供に伏見に集中させようとしました。そして巨椋池に流れ込む宇治川を槇島堤を築いて伏見へ流れ込むようにしたうえに、巨椋池を縦断する太閤堤を建設。その堤防上に新たな大和街道(今の国道24号線)を通しました。水流を失った巨椋池は次第に不衛生な沼地と化した為、その後に干拓されて広大な農地へと生まれ変わります。

新しい街道は宇治の町を大きく迂回した上、さらに水上交通をも失った宇治は”茶どころ”の地域としてだけの地位まで下がり、町は大きく衰退していったのです。

宇治駅前から宇治橋に向かう駅前商店街の一角に安政6年(1859)創業の山本藤吉本店があります。この商店街通りには他に町家が数軒、参道沿いの商家もそれほど多い訳ではなく、世界遺産のある町にしては、その地名が持つイメージとはかけ離れて、意外なほど古い町並みが少ないのが驚きと共に残念でなりません。
 
 
 
 
 
 
 
宇治のシンボル的建造物・世界遺産で国宝の平等院鳳凰堂