法隆寺の東に約2km、町域の中央を西名阪自動車度が横断する安堵町と言う小さな町があります。この一帯は、古くは現在の法隆寺のある斑鳩町に及ぶ安堵荘が記されています。南北朝期にはこの地域で市が開かれた常楽寺など多くの有力寺社がありましたが、その多くは室町期にはほとんど姿を消していきました。 江戸時代には綿や藺草の栽培が盛んで灯心草など換金作物を生産する農村地域でしたが、天保年間には大阪を結ぶ大和川水運の拠点として、舟荷継問屋を中心に酒屋・醤油屋・油屋・豆腐こんにゃく屋・大工職・桶屋・鍛冶屋・魚屋などあらゆる諸商売の店舗が形成され、在郷町的な河港町として発展していきました。
この地域大和川と富雄川を初めとする大小の川が合流し、地内を岡崎川が貫流する為、古くより水害に悩まされ続け、江戸期に大和川水利権を含めた広域防災協定である、「五ヶ村勘定」が西安堵、東安堵、笠目、窪田、岡崎の五か村で結ばれ、これが明治に合併して安堵町が生まれる経緯となりました。
現在東安堵には代々庄屋職を勤めた旧今村家邸が安堵町歴史民俗資料館として保存公開され、また近代陶芸の巨匠富本憲吉の生家の冨本憲吉記念館が、かつての中心部に残る古い町並の一角に建ち、戦国期の宿場町のような枡形もある半農半商の集落の姿を今に残していました。
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