吉野川・紀ノ川流域で最も古い伝統的な町並みを残す五條新町は、東西南北に街道が交差する交通の要衝として栄えた天領の町でした。幕末の動乱期に五條代官所を襲撃し”五條新政府”を号した天誅組事件から明治維新発祥の地とも呼ばれています。 北は奈良と結ぶ下街道。南は熊野に通じる西熊野街道。さらにはるか伊勢・松坂と和歌山城下を東西に結ぶ紀伊街道もしくは伊勢南街道。
さらに吉野川の舟運によって水陸交通・物流の要衝にして政治経済の中心地。そして宿場町でもあるとともに五條新町には紀伊藩の要人の為に本陣が置かれていました。 五條の中心にある4つ辻交差点は「本陣交差点」といいます。その交差点から南に伸びる西熊野街道を少し下った所に、日本最古の商家建築といわれる栗山家住宅があります。ここが旧紀伊街道の伝統的な街並みの入口です。
五条1丁目から本町丁目、新町へと続く旧街道沿いにはおよそ300mにわたって塗籠造り・千本格子に本瓦の重厚な建物が連なっています。五條で今も続く造り酒屋の山本本家が最も大きな商家で、その酒蔵の土蔵群が裏手に連なります。この酒蔵郡を縫うような裏小路は、観光客が散策する事を意識してか綺麗に整備されていました。あたりには甘い醸造の香りが立ちこめています。
これら江戸時代の建物が77棟も残る五条の町並みは、なぜか長く国の重伝建に指定されていませんでしたが、2010年にようやく指定される事となります。
新町1丁目の終わり、寿命川沿いに続き吉野川を目前に工事が止まっているコンクリート製の高架があります。この高架は戦前に計画され、途中で中止された廃線の遺構です。五条を起点に紀伊半島を縦断して熊野の新宮を結ぶ、国鉄五新線の夢の跡。はるか昔、紀ノ川を渡り高野山の先は未開の地であり「熊野」と呼ばれ恐れられ、「黄泉の国」として崇拝され続けていました。その目前で計画が中止され放置された鉄道の遺跡は、何か物語性を感じます。 (ちなみに五新線はずっと奥地の西吉野村城戸まで建設されました、建設中止後はバス専用道路として舗装され、路線バスが走っています。)
表通りの五條の町並み
五條と新宮駅を結ぶ予定だっだ五新線の夢の跡
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