平城京の外京である奈良町の南端部を意味する京終町から南へ約6km。天理市の中心部からは北へ約2kmの旧上街道沿いに「奈良の難読地名」の一つ櫟本地区の町並みがあります。この町並みは西名阪自動車道の高架下を南北に縦断し、そして今も上街道沿いに商店街を形成しています。
西名阪自動車道の北側で、和爾下神社(わにした神社:大和郡山にも同名神社があり、そちらは下治道天皇社)前交差点を東西に走る旧街道とそれに併走して流れる奈良時代の水路は和爾下神社へ至る古代参詣道「北の横大路」の遺構です。
この上街道と北の横大路が交差する場所で古くから市場が開かれ、 商業の活発だったことから「市場」という地名が始まり、それが転じたのか古くは櫟井とも書かれていました。北の横大路は別名「業平道」とも呼ばれ、また東側の伊勢方面への道は近世には高瀬街道(都祁山道とも)と呼ばれるようになります。
地名が現在の櫟本となるのは奈良時代に入ってからで、その歴史の古さが伺われますが、江戸時代になると大村であったために、上街道沿いの高品・市場と高瀬街道沿いの瓦釜・膳夫(かしわて)・南小路・田之坪6つの垣内(かいと)に区分され、十字の街村からなり、大庄屋、年寄、肝煎が置かれた町場を形成していました。町家は300軒を越え、人口は1,600人を数えたといいます。この櫟本村6垣内のうち街道に沿ったいわゆる町場は「市場」のみで他は後背部の農村でした。
現在、中部東海及び東日本方面から奈良への入口及び、大阪方面への大動脈はこの名阪国道・西名阪自動車道であり、この地がいかに古代より重要な交通の要衝であったであろう事が、頭上を走る高速道路の高架橋からも伺い知る事ができます。
北の横大路(業平道)と上街道の交差点
上街道・名阪自動車道南側の町並み
町家の背後に見えるのが現在の大動脈・西名阪自動車道 |