猿沢池の西南「ならまち」に、 「餅飯殿(もちいどの)町」という変った地名の街があります。南北に延びるこの通りは、古くは平城京の東六坊大路にあたり、その後近世には各種商店が建ち並び始め、現在は奈良町の生活を支えるアーケード商店街「もちいどの通り商店街」と呼ばれています。
餅飯殿という地名は南北朝期からすでに見られる名で、この地名の由来には諸説あり、伝承のひとつに「はるか昔に東大寺の高僧、理源大師が大峰山の行者を困らせる大蛇退治の勅命を受け、 そのお供に名乗り出たのが箱屋勘兵衛は「餅飯」を持って大峰山に向かい、大蛇退治を成功させました。 それにより箱屋勘兵衛は「餅飯の殿」と称号を与えられた」というものがあります。この他にもいくつか類似したエピソードがありますが、これらはいずれも吉野や天川弁財天が関係し、近世初期ごろから始まった弁財天信仰の頃に生まれたものとされていています。よって歴史的にはより古い若宮祭礼に関係する餅供御の調進に関係するという説が有力です。
この「もちいどの通り」の南側からは御門通りという名で呼ばれています。元興寺の御門に由来する高御門町と下御門町があります。
この通りの南端にある木辻町はかつての遊郭街で、昭和8年の奈良県の資料では34軒の妓楼が記録に残っています。現在は一軒だけが残り一般の旅館として営業を続けています。
御門通りの南端部で交差する東側の通り花園町
元興寺の伽藍の諸仏に供えるための花園があったというのが地名の由来。
鳴川町・高御門町・脇戸町は町家が最も残るエリア
ゆるやかなV字の地形にある鳴川(なるかわ)町にはかつて飛鳥川が流れていました。現在は暗渠となっているこの川は流れが速い事から鳴川とも称され、それが地名になったという説があります。
道の東側が高御門町・西側が脇戸町
脇戸町(わきどちょう)の由来は高御門と下御門との間に小さな門があったので脇戸というようになったという説と、むかし脇胴氏という甲冑(かっちゅう)師が住んでいたからという説があります。この町は高台にあるので戦前までは火の見やぐらがあったそうです。
下御門町・うなぎの名店「江戸川」ならまち店
下御門町と高御門町はいずれも奈良七御門のひとつ元興寺の西門に由来し、地勢が高台にあった方の門を高御門、低い方にあった門を下御門と称したといいます。
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