奈良きたまちは、奈良市の近鉄奈良駅よりも北側に残る古い市街地を指す名称です。江戸~昭和期の町並みが残り、「法蓮格子」と呼ばれる格子を用いた町家をはじめ重要文化財である奈良女子大学記念館などがあります。
江戸時代、奈良の北の玄関口として旅籠や商店が並び、京都へ通じる京街道(奈良街道とも)を中心に栄えた地域で、その中でも一条通り界隈は明治の一時期、名古屋と奈良を結ぶ大仏鉄道の大仏駅から東大寺(転害門)へ向かう参道として栄えました。
東大寺の西の門・転害門から西へのびる道が、現在の奈良一条通りであり、平城京の左京一条南大路にさかのぼる歴史の道です。転害門は佐保路門とも呼ばれていました。この転害門から東へと延びる一条大路は佐保路とも呼ばれていたからです。
「佐保」とは今で言うところの「景勝地」の意味で、平城京時代のこのあたりは貴族の別荘地でした。
さてこの「佐保道」ですが、狭義では東大寺転害門から西の法華寺までの直線区間約2.5kmを差していいます。法華寺から西へは、一度北へ約200ずれてクランクし、平城宮の北を走ります。この平城京北端の道を一条北大路といいます。
転害門から西へ伸びる一条通りに面する町は包永町と言います。現在は西包永町(にしかねながちょう)東包永町(ひがしかねながちょう)に分かれますが、鎌倉時代から室町にかけて活躍した手掻派刀工の始祖とされる、包永が鍛冶をおこなっていた事に由来する地名です。その作風は、鎌倉中期に見るような反りがある厚い刃が特徴で、現在は国宝にもなっています。現在この一条通りで古い家並みが残るのは転害門から佐保川までの東西包永町約400mの区間に限られます。
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