大宮通りは奈良市の東西のメインストリートであり、奈良市宝来町から近鉄奈良駅前まで至る。宝来町より西は阪奈道路、近鉄奈良駅以東は登大路と名を変える道で、平城京時代は二条通りと三条通の間の小さな坊条通りの一つでした。
近鉄奈良駅は昭和44年(1969)に日本万国博覧会開催を控えた事業で地下化された。近年生まれた「奈良きたまち」という地域名は、この近鉄奈良駅の南側(正確には猿沢池より南)の「奈良町都市景観形成地区」である「ならまち(奈良町)」に対して、同北側の古い市街地を指すものです。
「ならまち(奈良町)」に建つ町家が江戸時代築の建物であるのに対して、「奈良きたまち」のそれは明治~昭和期の町並みが残り、「法蓮格子」と呼ばれる奈良近郊独特の様式を用いた格子を持つ町家が並びます。町家型農家であった法蓮町の町家のほとんどがこの型であったために地名を冠せられたもので、江戸時代に鹿を追い込み、角を切る作業の際に格子で鹿を傷をつけないように工夫されて生まれた事から「鹿格子」とも呼ばれていました。
京街道沿いに建つ「東大寺西大門跡」の碑。門に通じていた平城京二条大路。旧二条大路は平城京の衰退と共にその姿を変え、当時は幅36mとされ朱雀大路に次ぐ大路であったと言われていますが、現在は幅の狭い生活道路となり「奈良きたまち」商店街の一部を成しています。東大寺西大門跡があった場所に現在建つのが、創業140余年の吉野本葛の老舗「天極堂」。ここから西へと二条通りが始まります。
旧二条通りには伝統的な家並みが所々残ります。NHKの奈良放送局の先にある奈良女子大。慶長18年(1613)大和国の国奉行であった大久保長安の死を契機に、奈良奉行が設置され、北魚屋町に本格的な奉行所が造営されます。江戸の北町奉行所の3倍以上の大きさを誇る日本一の規模の奉行所で、堀で囲まれ京都の二条城と同じ規模だったと言われます。奈良女子大はこの奈良奉行所の跡地に建てられました。奈良防衛の要でもあった奈良奉行所。奈良女子大前の道が広いのは、ここで兵列を整えた事を意味します。奉行所向かいに今も建つ寺川道具店は、奉行所の中をのぞけないように2階に窓がありません。
このことからも二条通りは江戸期には奈良町の行政の中心地として機能していました。
ただし現在この「奈良きたまち」界隈において、この通りはあまり「二条通り」の名称は使われていないようです。しかし一方で、新大宮から西側の地区では二条通りの延長上の道は寸断されてほとんどその姿が残らないものの、二条大路の地名が残り、また道もその「二条通り」の名で呼ばれています。
旧二条通り沿いにあるゲストハウス「奈良バックパッカーズ」旧家を改装した素泊まり宿です。
奈良奉行所(奈良女子大)向かいに今も建つ寺川道具店の二階には窓が無い。その先に見える赤い屋根の建物は旧交番です。
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