JR桜井線・天理駅前からすぐ南に「丹波市町」という地区があります。名前が示すように中世から古道上ッ道沿いに発達した市場町で、江戸時代になると街道沿線に所領を抱えた伊賀・伊勢国主藤堂氏により宿場町として整備され急速に発展していきました。現在も本町の北側に残る道路の屈曲は宿場町の遺構です。
古代上ッ道は江戸期以降は上街道と呼ばれるようになる奈良盆地を縦断する道で、古くから京・大坂より奈良を経て吉野・伊勢方面に至る重要な街道でした。 宿場町であるとともに市場町でもあった丹波市には、市の守り神として蛭子社が祀られています。町場は江戸時代になってから急速に拡大、本町・中之町・南之町・中島町・北之町・新町が街道筋に生まれていきました。元禄元年(1688)の記録では屋号を有する商家は20軒でしたが、寛政11年(1799)の記録では、実にその数100軒にまで達したといいますからその成長ぶりが伺えます。
丹波市の中心部に木造のアーケードがあり、町のシンボルとなっています。市場の名残といいますが、おそらく近年の朝一かなにかの為に設けられたものかと思われます。また、この通りには近年まで宿場町に多く見られる道路中央の水路がありました。今は暗渠となったその遺構が見られますが、大和郡山市紺屋町のような風景が失われてしまった事は残念でなりません。 現在の丹波市町はわずか300mほどの区間しかありませんが、旧上街道沿いには伝統的な商家建築が数多く残り、造り酒屋もあるなど、さまざまな要素が凝縮された、町並み歩きが楽しめる町でした。
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