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浜田京町

はまだきょうまち

浜田藩6万石の城下町

島根県浜田市京町

 



元和5年(1619年)古田重治が石見国の内5万4000石を与えられて伊勢松坂よりこの石見浜田に入封。ここに浜田藩が立藩します。近世浜田城と城下町はこの吉田氏支配の30年の間に完成します。しかし藩主に子がいなかった事によって藩が無嗣改易となる事を恐れた藩の重臣の一部が後継者を秘密裏に画策。これが露見して2代藩主古田重恒は、重臣3名を粛正するお家騒動(古田騒動)に発展し、結果藩はお取り潰しになります。


そして以後の浜田藩は譜代大名の遍歴が続きます。播磨山崎藩より松平(松井)康映が5万石で入封しますが、5代松平康福は寺社奉行就任に伴って下総古河へ転封し、入れ替わりで本多忠敞が5万石で入封します。本多家は3代の支配で再び転封。老中に昇格した松平(松井)康福が再び5万5400石で浜田藩に戻ってきます。しかし、第3代藩主・松平康任の時代に朝鮮との密貿易が発覚して陸奥棚倉藩へ左遷。

最後は上野国館林藩より松平(越智)斉厚が6万1000石で入封して幕末を迎えます。第15代将軍・徳川慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った4代藩主・松平武聰は対毛利氏の山陰西端の守備を担いますが、長州軍の破竹の勢いの前に、戦わずして浜田城を放棄し、城下に火を放って海路で松江城に撤退します。これによって浜田城下町は灰燼に帰してしまいました。



城下町の姿が失われてしまった浜田には、明治に入って歩兵第12連隊が置かれ、山陰を代表する軍都として、また石見中央部の交通拠点として一大商港を有する町として発展しますが、その浜田港は国鉄山陰本線の開通によって衰退。商港から漁港へと転換を余儀なくされてしまいます。


浜田市の中心市街で古い町並みをわずかに残す京町は原町と栄町の間にある商店街。かつては浜田城下町の中で門ヶ辻町と檜物屋町と呼ばれていました、国道新設の区画整理によって町並みの再構築が行われ、工町(たくみまち)が成立。明治32年に京町と改称して今にいたります。








浜田藩の城下町ではなく明治以降の軍都の町並み

酒蔵情報

清酒

「三つ櫻」

三櫻酒造

島根県浜田市黒川909

0855-22-0055