宍道湖の西岸、平田舟川と揖斐川に挟まれた河口に位置する平田の町は、現在湖岸から約4kmほど内陸にありますが、かつては湖岸に面し、宍道湖を介して松江の城下町と結ばれた水運拠点として栄えた町でした。
しかし斐伊川河口部の沖積と新田開発により、平田は次第に内陸部へと取り込まれていくのです。しかしその後も平田船川や湯谷川の舟運によって、物資の集散拠点、商業の町としての役割は変わらず続きました。
現在、平田の街並みは平田船川に沿って栄えた片原町と新町、湯谷川沿いの仲町、南仲町に往時を偲ばせる街並みを残しています。
妻入りの土蔵造りの街並みは、間口の長さによって課税額がきめられた藩政時代の名残ですが、川辺に面した土地が少ない場所では平入りの建物も見られました。
平田は江戸期から明治にかけて米と木綿の集散地となります。それらは宍道湖水運によって境港に運ばれ、そこから海路で京や大阪方面へ運ばれました。
平田における木綿の取扱量は松江藩全体の実に40%を占めたといいます。
さらに「雲州平田木綿」が大阪で高い評価を得ると、その綿花や製品の集散地として賑わい、木綿業を中心とした商人らによる文化の全盛時代を迎えます。明治時代になると、綿花に代わって養蚕を中心とした製糸業が発達し、明治末期には県下一の工業都市として栄えました。
しかし、それと同時に明治時代にはこの島根県にも産業革命がもたらした鉄道建設が始まります。そしてそれは宍道湖の南側、山陰道に沿って敷かれ現在の山陰本線となりますが、これによって宍道湖舟運ぬよる物資の集散及び商工業の中心としての役割を次第にその鉄道沿線に奪われていく事となるのです。
かつて舟運で栄えた平田は、次第にその活況を失っていくこととなります。現在町の中心部、平田舟川沿いにひっそりと残るかつての平田の繁栄を偲ばせる町並みは、保存地区として「木綿街道」の名のもと国の重伝建指定に向けた景観整備が進められています。
町並み地区以外にも、平田の町には古い建物が多く残ります
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