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広瀬

ひろせ

松江支藩、越前松平家広瀬藩3万石の陣屋町

島根県安来市広瀬町広瀬 【旧・能義郡広瀬町2005年合併】

 

松江市の南東約15kmほどの山中にある小さな町、広瀬は古来より富田(とだ)と呼ばれた出雲国の中心地であり、中世には月山富田城の城下町、江戸時代には松江藩の支藩である広瀬藩の陣屋町として栄えた町でした。
周囲を山々に囲まれた天然の要害であった月山に富田城を築いたのは、中世の出雲国守護佐々木義清です。その後毛利氏支配の時代には、一族の吉川広家が出雲一国を統治する本拠地としました。



関ヶ原の戦い後、毛利氏は敗戦によって防長2国に減封となり、吉川広家も岩国へと移され、代わって月山富田城には堀尾吉晴が近江浜松より出雲・隠岐二国23万5000石を拝領してこの地へ入封します。 しかしこの時、月山富田城を取り囲む山々が城を守る天然の要害だった時代はすでに終わり、火砲の発達によってその山々は敵の攻撃拠点となり、かえって集中砲火の的になるという防衛の脆弱さが露見。一方で物資輸送の動脈だった富田川が土砂の堆積によって使用不可能となった事、山間に位置するためにただでさえ手狭な土地が武家屋敷や城下町拡大の妨げとなった事など、さまざまな諸問題の累積に城下町の早急な移転が余儀なくされました。
そしてその年のうちに新しい城下町「松江」の建設が始まります。 「思いがけない松江ができて、富田は野となれ山となる」と俚謡にうたわれる様に富田は衰退し、さらに追い打ちを掛けて旧城下町を襲った2度の大洪水により町は壊滅、町は川底に沈んでしまいました。



さて松江城主となった堀尾氏は二代忠晴の時に無嗣改易となり、次の京極氏もまた無嗣改易。続くは結城秀康の三男、越前松平直政が12万6000石で入封し、松江藩は以後十代230年間続いて明治を迎えます。 この時、藩主直政は二男近栄に新田3万石を蔵米支給という形で与えましたが、宗家である越後高田藩主松平光長の「越後騒動」に加担した罪に連座して、1万5000石に落とされることになりました。が、すぐ後に1万5000石を富田に領地の形で与え、ここに広瀬藩が成立します。その後3万石に復帰し、さらに幕府より城主格として認められます。



広瀬の名はこの時に名付けられたものです。洪水が生んだ広い氾濫原に由来するのでしょうか?しかし、その直後にも再び大洪水で堤防が決壊、濁流は城下町に甚大な被害を与え、成立したばかりの広瀬藩は災害の復興から始まる事になったのです。 さらにその後も度々大火に見舞われ、大正4年の大火では城下町の大部分と藩庁や武家屋敷も失われてしまいました。 現在、安来高校広瀬分校の付近が、かつての広瀬藩陣屋だったとされています。 広瀬の地酒吉田酒造の酒蔵とその周辺に、おそらく明治期以降のものと思われますが、伝統的な街並みが僅かながら残されています。






酒蔵情報

清酒

「出雲月山」

吉田酒造

島根県安来市広瀬町広瀬1216

0854-32-2258

清酒

「ほろ酔」

青砥酒造

島根県安来市広瀬町布部1164-1

0854-36-0006