出雲最大の流域面積をもつ斐伊川は古くから物資の輸送路として重要な役割を占め大津はその河港として発達。藩政時代には半農半商の市場町として賑わったその町は、出雲市の中心部から旧山陰道に沿って東に進み、揖斐川に突き当たる場所。国道9号線の神立橋の東詰にあります。
今も旧山陰道沿いには旧家の邸宅を初めとするを初めとする古い家並みが残っています。
街並みの中心となっているこの旧家の邸宅が、かつて松江藩の本陣をも務めた山田家住宅です。
7代藩主松平治郷の時代に、出雲大社参拝の際の宿泊休憩施設として御成座敷と雪隠(便所)、湯殿が増築されました。
現在は瓦葺きとなっていますが、当時はこけら葺きだったそうです。
松江藩主は出雲大社参拝の際、往路は今の一畑電鉄が通る湖北街道を使い、帰路はこの山陰道を使って城下へ戻りました。藩内の在郷町の均衡的発展を意図したものでしょうか?
「大津」とはその名のとおり「大きな港」という意味ですが、この大津本町が揖斐川及び宍道湖舟運の拠点であった、もしくはそれ相当の港町であったという資料はあまり残されてはいません。しかし歴史の古い陰陽連絡の要地である事に町の名は由来します。
当時、この地域の中心は現在の出雲市駅前界隈にある「今市」という在郷町で、大津町はそれに隣接した河港町であったと思われます。しかし当時の文献では「市場の下」や「市場荒神」の名が見られ、また「雲陽誌」によると毎年4月から8月まで牛馬市が立っていたと記されています。
|